「死」ということの新しい時代
⭐️金曜午前は、大人のオンラインリベラル・アーツ
今回の内容は、キリスト教理神論的医療と汎神論的医療。そこからいろいろと話が飛んで飛んで(笑)
キリスト教理神論的背景を持つ団体として、私たちがよく耳にするのが
フリーメーソンです。
フリーメーソンはその拡大が特に近世後半〜近代にわたって急激だったこと、
多くの知識人がそのメンバーだったこと
西欧各国の要人がそのメンバーとなったこと、
資本主義社会の拡大においてそのメンバーが重要な役割を果たしたこと
などなどなど多岐にわたるさまざまな理由から
時にはバチカンに、時にはナチスドイツに目の敵にされ、またズーっっと陰謀論の中核に置かれてきました。
フリーメーソンの活動、そこに陰謀があったか?どうか?はわかりませんが、
西欧社会において、非常に強い影響を持ったことは確かです。
なにしろ、時代の先端を行く人たちがそこに集まって、
お金に関わるさまざまとも近いところにあって、
権力者もメンバーとなれば当然です。
陰謀なんてなくても影響は大きいはずです。
科学・哲学の発展は、フリーメーソンの基盤であるキリスト教理神論的背景があればこそであったし、
かつては理神論のフリーメーソンを異端扱いしたバチカンはじめ、キリスト教各宗派も、
近現代に近づくにつれキリスト教理神論と、思想的に親和性を持つようになってきました。
ある種、科学・哲学の発展にキリスト教各宗派が、理神論的にならざるを得なかったと言えるかもしれません。
急激に世界に拡大したフリーメーソンですが、人の移動と同時にその思想的背景もヨーロッパから輸出されて世界に拡大してゆきます。
身近なところでは、日本国憲法前文にその影響が見られるとする研究者もいるくらいです。
江戸時代末期から、日本に接近してきたフリーメーソン
(坂本龍馬がメンバーだったという説がありますが、どうも裏付けは薄いようです。今後の研究を待ちましょう。)
陰に陽にその影響が日本の文化にもたらされます。
明治時代、日本が「国民国家」に変容しようとして、キリスト教プロテスタントの国々から、多くの影響を受けます。特にプロイセン。
医療制度などは、技術と共に欧米からの影響がなければ成立しなかったと言えます。
その影響、もっというと欧米こそが進んでいて、日本は追いかけるという心象や現実の図式は、今に至るまで続いています。
アメリカ・ヨーロッパ発の! なんて言われると、それだけで効いた気になるというアレから始まって、医療の現場で問題になるガイドライン的なものも含めて。
20世紀後半から、盛んに言われ出したのが「ホスピス」。
「ホスピス」自体はそれこそ昔からあったし、
人権侵害の代表格のように言われる「姥捨山」も、そういう側面があったんじゃないかと思います。
「ホスピス」やそれに類する施設は、歴史上宗教宗派問わず存在していましたが、
特に現代社会ではキリスト教系の病院にその設置が目立ちます。
(この見方はある種のバイアスがかかっているかもしれませんけれども・・)
それは、キリスト教社会が、もっというと理神論的キリスト教社会が、ようやく「死」に向かい合うことを決めたからだ、と言えると思います。
キリスト教社会では本来「自死」はありません。
生死の決定権は神に委ねられています。
カトリックの腐敗に対して抗議(プロテスト)したプロテスタントはなおさらです。
そのため「自死」や病院でも医療技術が追いつかなかったりして、患者さんが亡くなるとそれは
「敗北」となります。
その死の決定権を、神ではなく個人のものとしていた文化の代表は日本です。
あくまで階級社会に対する見方の一つなのですが、士農工商と言ったときなぜ「士」が先に来るか? といえば
「サムライだけが公的に自らの生死の決定権を持つ存在」だからです。
(この感覚がある種、武家文化が公家文化を圧倒して、鎌倉以降の侍の時代を作ったとも言えます。ただその感覚がひん曲がって、多くの悲劇が起きたことは歴史が証明しています。)
ヨーロッパ文化、キリスト教、フリーメーソン的気風の日本への流入は、ある種日本人から
「自らの生死の決定権」を少しずつ奪って行ったとも言えます。
第二次大戦後は顕著でした。
ところが、「生死の決定」ということで、大きな転機がありました。
オランダで1971年難病に苦しむ方の自殺幇助が行われ、その幇助をした医師が罪に問われることがありませんでした。同じくヨーロッパではスイスが「自殺幇助」に対して広く認められています。
ホスピス自体は自殺幇助を行う場所ではありませんが、「死」を敗北と捉えないで受け入れる場所。とみれば、非常に長い期間をかけて「死を扶ける場所」とも言えます。
理神論的傾向は
神(創造者)を現世からある種切り離します。
そのため、世界の主人公は人間になり、人間が現世社会に対し支配的になることを容認します。
そして人間は世界を切り刻み、分析し、コントロールを試みる感覚が強くなります。
死をコントロールし、打ち勝とうとします。
ところがそれが無理であると20世紀後半〜21世紀になって認識され、
人類は「生死の決定権」を取り戻しつつあると思います。
つまりフリーメーソン的(俗なレベルで語られる)な呪縛を離れつつあると言えます。
既に突入している「多死社会」ここにどのようにアプローチすべきか?
急いで、我々は考えをそれぞれにまとめる必要があります。
なぜか?、「死ぬのは自分だけではない」し、また「自分の死はもっと先」というわけでもないからです。
自分の「死」、他人の「死」にどのように向かい合うか?
これが今、突きつけられた課題となって目の前にあります。
と、いうお話が今回の金曜日でしたが。。。忘れていたことがありました。。
それは「ムーンショット計画」、
https://www8.cao.go.jp/cstp/moonshot/sub1.html
人類は死を超えようともしている・・
ムーンショット計画への子供たちの反応は・・・
https://www.facebook.com/atsushi.soneda/posts/10217490295883357
多死社会と共にやってくるこのハイテクノロジーの目的の一つ,
「死を超える。」
死を受け入れる
死を見つめる
死を超える
これらのキーワードを抱えて、新たな時代にわたしたちは否応無しに突入してゆきます。
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